JIHS感染症リスクコミュニケーション指針の策定について

JIHS感染症リスクコミュニケーション指針の策定について
(IASR Vol. 47 p106-108: 2026年6月号)
はじめに
感染症分野では, 市民対象の情報提供や, より迅速で上質な情報提供のための広聴の取り組みが進められてきた。一方, 環境や食品等の分野では, 伝達にとどまらず, 意思決定支援の観点から双方向性を重視したリスクコミュニケーションが実装されてきた歴史がある1,2)。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)パンデミックへの各国の対応では, 双方向のコミュニケーションが必ずしも十分には実施されていなかったことが指摘されており, その結果として人々の懸念や状況を踏まえたコミュニケーションや対応が困難となったことなど, 感染症分野においても同様の枠組みの必要性が顕在化した3)。感染症の流行をはじめとした健康危機に対しては, 人々が科学的根拠を踏まえ, それぞれの状況に応じて適切に判断し行動することによって, 対策の実効性が確保される。しかし, 情報だけで人々の行動が自動的に決まるわけではない。生活上の制約, 心理的負担など, 情報以外の要因もまた意思決定の妨げとなる。そのため, 感染症のリスクコミュニケーションも, COVID-19以前に主流とされてきた情報提供の効率化の取り組みから, 人々が自ら納得して意思決定できる状態を支えるための対話的な取り組みとして拡張されつつある4)。
また, COVID-19の対応では, 専門家による科学的助言と, 社会として行うべき意思決定との役割分担が, 必ずしも十分に整理されておらず, 期待される役割や責任範囲に混乱が生じた。また, リスクコミュニケーションという用語の意味するところが, 関係者に共通認識を持って受け入れられていないことも示されている5)。感染症危機への備えとして, 平時の段階から, 関係者間の役割分担や連携のあり方, 用語の定義を整理し, それぞれの組織や団体が実践のよりどころとする基本的な考え方を共有しておくことが求められる。
指針策定の経緯
こうした背景を踏まえ, 国立健康危機管理研究機構(JIHS)では, 感染症リスクコミュニケーションにおける自らの役割や, リスクコミュニケーションを意思決定支援として機能させるための基本原則等を定める指針を策定した6)。JIHSは, 行政や市民とは異なる立場から, 科学的根拠に基づく情報や技術を提供する機能を持つサイエンスセンターである。科学的知見の整理・分析, 助言, 技術的支援を行うとともに, 医療の提供を通じて感染症対策を牽引する。ここでいう「科学的根拠に基づく情報や技術」には, 感染症そのものに関する知見に限らず, 人々の意思決定を妨げる要因など, リスクコミュニケーションの実践から得られる理解や, コミュニケーションの方法論も包含されている。
本指針では, 行政や専門家, 感染症の影響を受ける人々を含む多様な対象を明示し, それぞれに対してJIHSがどのような役割を果たすのかを整理している。これにより, JIHSが, 社会を構成する一人ひとりを含む多様な主体の意思決定を支える役割と責任を担うことを明確にしている。
指針の基本原則
本指針では, 5つの基本原則が定められている。第1に, 科学的妥当性と合理性である。科学的知見には不確実性や更新可能性がともなうため, それらを含めて提示することが, 人々の実態に即した理解につながる。第2に, 情報の透明性である。判断の根拠や検討過程, 更新の履歴を明示することで, 受け手が自ら検証可能な状態を確保する。第3に, 平時と緊急時の一貫性である。平時からの継続的な取り組みを通じて, 危機時にも機能するコミュニケーションの基盤を形成する。第4に, 信頼である。共感や敬意に基づく双方向の関係性から, 対象の情報の受け止めと意思決定・行動を支える。第5の人権への配慮については, 差別やスティグマを助長しないことが倫理的な要請であるだけではなく, 公衆衛生上も不可欠であることが記されている。これらの原則は, 個別の手順を示すものではないが, 機構内の組織や職員が自らの文脈に応じて実践を構築する際の前提となるものである。指針に基づいて果たすべき役割や前提が整理されることで, 組織の役割の誤認や対応のばらつきを抑制し, それぞれが自律的に判断・対応できる状態を支えることが可能となる。その結果として, 行政, 専門家, 市民を含む多様な関係者間の連携が, 混乱なく機能することが期待される。
まとめ
本指針は, JIHSにおける感染症リスクコミュニケーションの実践のよりどころとして策定されたものであるが, 役割や前提を明確化する枠組みとして, 他の主体におけるリスクコミュニケーションの取り組みを検討する際にも参照可能な性質を有している。各主体においては, このような枠組みを参照することで, 感染症対応における判断のよりどころを明確にし, 対応のばらつきや迷いを低減することが可能となる。また, 各主体が担うべき機能や責任範囲を整理する際の基盤として活用することで, 日常業務における意思決定や対応に整合性が確保されるとともに, リスクコミュニケーションに不可欠な, 立場を越えた連携の効率化につながることが期待される。
参考文献
- 環境省, 自治体のための化学物質に関するリスクコミュニケーションマニュアル, 2002年版(2011年3月一部改訂)
https://www.env.go.jp/chemi/communication/manual/rcman_hyoushi.pdf - 内閣府食品安全委員会, 食品安全 vol.11, 2006
https://www.fsc.go.jp/sonota/kikansi/11gou/11gou_1_7.pdf - Geurts B, et al., Front Public Health 11: 1038989, 2023
- 内閣感染症危機管理統括庁, 情報提供・共有, リスクコミュニケーションに関するガイドライン, 令和6(2024)年8月30日
https://www.caicm.go.jp/action/plan/guideline/files/guidelines_03_1.pdf - 奥田博子, 厚生労働科学研究費補助金(健康安全・危機管理対策総合研究事業)分担研究報告書, 地方自治体のリスクコミュニケーションの実態調査と行政のリスクコミュニケーションモデルの開発, 2023
https://mhlw-grants.niph.go.jp/system/files/report_pdf/202227024A-buntan5.pdf - 国立健康危機管理研究機構, 国立健康危機管理研究機構感染症リスクコミュニケーション指針, 2026
国立健康危機管理研究機構
理事
三宅邦明
危機管理・運営局
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